「小説 田中拓馬物語 その1 初めて絵を売った日のこと」


 田中拓馬は画材屋の近くの通りを歩いていた。その通りはいつも歩行者天国になっており、左右には小さな商店がならんでいる。いつもなら買い物客などとすれ違うだけのその通りの一角から、音楽が流れてきた。音楽の方を見ると、大道芸人がジャグリングをしていた。拓馬はそちらに足を向けた。数人が足を止めてジャグリングを見ている。しかし彼が注意をひかれたのは、大道芸人の足元だった。ボールやリング、ジャグリングに使うボーリングのピンのようなクラブや丸いコマなどが並べられており、それぞれに値札が付いている。
「いいでしょう」
 声をかけられて拓馬が顔を上げると、大道芸人と目が合った。外国人だな、と拓馬は思った。
「どれも使いやすいですよ」
 笑顔を浮かべてその白人の大道芸人は言った。流ちょうな日本語だが、外国人特有の訛りまでは消せていない。
「ここで物を売ってもいいんですか?」
 そう拓馬は聞いた。
「大丈夫ですよ」
「警察とかは大丈夫ですか?」
「はい。ここでは何度もやっているので、大丈夫です」
 そうですか、と言って拓馬は歩き始めた。
「何か買っていきませんか?」
 拓馬に向かって、大道芸人はそういった。
「いらないです」
 もう大道芸の道具には関心を無くした顔つきで、拓馬はそう言った。
「買わないのですか? あなたはケチですね」
 大道芸人がそういったので、拓馬はもう一度彼を見た。すこし皮肉っぽい笑顔を浮かべているが、口調は淡々としていた。拓馬は、何か言わないと悪いかなと思い、
「買わないです。お金がないので、買えないです」
 と言った。気付くと、さっきまで大道芸を見ていた人たちはすでに立ち去っていた。大道芸人は、やれやれ、といった感じでため息をつくと、道に置いてあったクラブに手を伸ばした。
 拓馬の頭からは、すでに大道芸のことは去っていた。代わりに彼の頭を占めていたのは、ここで物を売ってもいいという事だけだった。


 次の日の朝、拓馬は朝食もそこそこに、いつもは大きめのキャンバスを入れるバッグにさまざまなものを詰め始めた。画用紙に描かれた絵を10枚、ちょうど最近描いたものがベッドのわきに置かれていたのでそれを詰める。絵を置くシートは、前の日に父親のものを確保してある。値段は画用紙に書くことにした。お釣りのことが頭をよぎったが、全部の絵を千円で売れば小銭は準備しなくてもいいと気づき、小銭をかき集めるのはやめた。全部同じ値段にすれば、値札も1つでいいしな、と拓馬は考えた。
 彼はふと、先月に銀座でやったグループ展のことを思いだした。そのグループ展では、拓馬の絵は1枚も売れなかった。その展示は、彼が通っているカルチャーセンターの絵画教室の講師から誘われたものだった。拓馬が絵を描き始めてからまだ1年もたっていない。にもかかわらず県展に入選できたのは、この講師の指導が良かったからだろうと拓馬は考えていた。
 そのグループ展に来たのは、画家や出展者の友人などばかりだった。これでは仕方がないと思った拓馬は、グループ展のチラシを手に近くの画廊をいくつか周ったものだった。絵画教室の講師は、そんな彼を見て「絵が売れるのって、そんなに簡単ではないよ」と言っていたが、それを聞いた拓馬は、何もしなければ売れないのは当然だろうと考えた。


 通りに着き、拓馬は昨日の大道芸人がいた所に誰もいないことを確認した。平日の午前の人通りはそれほど多くなかった。拓馬はまっすぐに大道芸人がいた所に向かい、ブルーシートを敷き始めた。通りがかった買い物客が彼に目をやったが、彼はまったく気にするそぶりも見せなかった。シートを敷き、絵を並べる。額縁に入ったものはそのまま置き、入っていないものは風で飛ばないように上に物を置いた。折りたたまれた小さなチェアを開き、その上に座る。
 座って一息つくと、誰かが彼の方に向かってくるのに気がついた。40代ぐらいの女性が歩いて来るのを、拓馬は息をひそめるような気持ちで見つめた。その女性は足を止め、吟味するように絵を見ていく。拓馬は何か話しかけた方が良いのかと考えたが、何を言えばいいのかわからなかったので黙って女性を見ていた。
 「これを頂ける?」と、女性は赤い花瓶を描いた絵を指さした。「はい」とつぶやき、絵をビニールの袋に入れる。女性が差し出す千円札を受け取り、「ありがとうございます」と言った。
「いつもここで売っているの?」
 と、女性は言った。
「わかりません。今日が初めてなんですよ」
 と、拓馬は答えた。
「あらそう。絵は何年ぐらいやっているの?」
「1年ぐらいです」
 そう、すごいわね、がんばってくださいね、と言ってその女性は絵を受け取り、歩いて行った。
 売れた、と拓馬は思った。来る途中に買ったペットボトルのお茶を飲んだ。女性が買った絵が置かれていたところが、そこだけ空白のように何も置かれていない。横の絵をずらして、空白の部分を目立たなくした。チェアに座り直し、売れたと考えていたら、次は年配の男性が向かってきた。今度は「こんにちは」と声をかけてみた。シートの上に並べられた絵に目を向けていた男性は、顔を上げて「こんにちは」と言った。一瞬目が合ったが、男性はすぐに絵の方に顔を向け直した。拓馬は、男性の向こう側に、ベビーカーを押した女性が絵の方を見ながらゆっくり歩いているのに気づいた。女性に向かって、、さっきより大きな声で「こんにちは」と言い、「今日から絵を売っています」と付け加えた。女性は、「へえ、そうなんですか」と言って、男性の横に足を止めた。


 昼過ぎになり、拓馬は空腹感に気づいた。10枚持ってきた絵は、すでに3枚しか残っていない。彼は絵を片付けて帰ることにした。絵をビニールの袋に入れ、それをバッグに閉まった。チェアとシートをたたみながら、次に絵を売ることを考えた。明日は病院に行く日だから、明後日にまた売りに来ようと彼は思った。値段は、もっと目立つように色を付けて書いた方が良いかもしれない。今日は人物画を持ってきてなかったから、今度は持ってきてみよう。10枚じゃ足りなかった。もっとあれば午後まで売り続けることができた。午後の方が人通りは多いはずだし、今度は20枚は持ってこよう。
 拓馬の頭は、すでに次に売る日のことでいっぱいになっていた。何者かに急き立てられるように感じ、家に帰ったら何枚か描かないと足りなくなるかもしれないぞと思った。荷物を詰め終わった彼は、空腹を満たすために何度か行ったことのあるラーメン屋に向かって歩いて行った。