こんにちは。
今回のアート丸かじりは藤田嗣治の後編を書いてみたいと思います。
前編では藤田がパリに渡り、エコール・ド・パリの一人として活躍したことを書きました。
パリでの生活は藤田にとって新鮮なもので創作活動を掻き立てられるものであったのです。
それは、キュビズムやシャールレアリズムなど新しい20世紀の絵画がすでに登場して
日本にいた時とは違うものだったのでしょう。
その後の藤田ですが1929年、藤田が43才の時、16年ぶりに日本に帰国しました。
そして1931年に藤田は北米、南米で個展を開き、それが大絶賛を得たのでした。
1939年のとき藤田は日本に帰ります。
同年、第二次世界大戦が勃発します。
そして藤田は従軍画家として戦争画を描くのです。
その代表的な作品に「アッツ島玉砕」があります。
そして戦争は終わりますが、藤田は世間から戦争協力者として批判されるようになったのです。
それに嫌気が刺した藤田は、日本を去るのです。
藤田は自分は国のために絵を描いたという気持ちがあったのでしょう。
藤田は言うのです「俺が日本を捨てたのではなく、日本が俺を捨てたんだ」と。
そして、藤田は日本からフランスに帰り63才の時、フランス人として生きるのです。
この時の名前が、レオナール・フジタです。
晩年の藤田はクリスチャンでもあったことから、宗教の絵を多く残しています。
あと、少女の絵も多く自らを癒やしているかのようです。
そして1968年、藤田はスイスのチューリッヒで癌のため81歳で亡くなります。
死後、藤田は日本政府から勲一等瑞宝章を授与されています。
その作品は日本のみならずヨーロッパでも人気のあるものでした。
画家として成功を収めた藤田嗣治ではありますが、
その反対に世間からの風あたりも強かったのです。
藤田嗣治の一生は時代とともに激動の一生でした。
今でも展覧会では人気のある藤田嗣治。
偉大な画家、藤田嗣治。
ありがとうございました。
