画家とは何か?なぜやるのか?画家をめぐる評判について思う事

日本では画家というと生活するのが困難な職種、そもそも職種にすらなっていないと思います。ではなぜ僕が自分でアートスタジオを作り、経営というお金にかかわることをしてまで作品を作って、活動しているのかについて、周りの評価や評判とこちらの思いの食い違いがあるため、書いてみたいと思います。

まずアートでお金に関わる経営をしてアート作品を作って制作、販売という事をしているのには理由があります。それは、画廊に完全に属していたのでは、自由な表現ができない事がまず挙げられます。アートの世界は基本的に無資格なため、老若男女誰でもなれます。つまり制作者はだれでもなれるため、愛好家の作家まで含めるとかなりの数います。ですが、販売元のギャラリーは数少ないです。自然とギャラリーの意向や力が強くなります。その結果、作品は販売元のギャラリーの顔色を伺いながら、場合によっては意にそわない作品も作らないといけなくなります。また、芸術は本来、作家の自由な表現のはずですが、業者の意向が強すぎると、本来の意味が失われてしまうのです。そこで、自分の追求したい作品を作るには、自分が真に信じる世界で通じる作品、そして歴史を踏まえて、いい作品を考えた結果、自分でスタジオを持ち、販売をコントロールするのがいいと思いました。ただし、海外やこちらと協調してくれるギャラリーや関係者は拒まないつもりです。

では、どういう作品を残したいがために制作しているのか、について書いてみたいと思います。僕の作品は実は以前よりも腕は上がってきています。年を重ねるごとに制作に力が込められてきたのではと自負があります。それは売り絵を描かないで常に実験し、時には失敗し精度を上げてきたからです。いわゆる美大には行きませんでしたが、優秀な業界にこびてない先生三人から個人的に学んできました。また研究本などで制作の技法、そもそもの制作根拠の考えを深め、古今東西の作家を研究しています。これはなるべくいい作品を作り、後世にいい形で残したいという事があります。これは自分の子供のようなものでもあるからです。ただし作品は陶芸家と同じく厳しい面も持って接しています。今までに初期の作品でだめなのは1500枚以上大量に作品を破いて処理してきたこともあります。また現在でも駄作と思われるのは破棄してます。これは経費的にはもったいないですが、作家としての名前を維持するため、広くは作品の価値を維持して顧客の方の転売時の価格の保護を狙ってのものです。

この活動は顧客の皆さんに支えられているので、顧客の皆様には、色々と買って良かったと思われる施作を行っています。というのも作品が大事にされて次の世代に行くには、顧客の方が作品に価値を見出し、大事にしてもらわないと継承されて行かないからです。

僕自身はアートを通して作品に関しては妥協はしていません。出来が良くないのができてしまうのは一定の可能性でありますが、それはなるべく減らし、いいのを作っていきたいと思っています。ではいい作品とは何でしょうか?僕の考えるいい作品とは、作家の息遣いが聞こえる、見ていて飽きが来にくい作品を指します。違った状況や日時でみたら作品が違って見えたみたいな新鮮な感動を常に与えるようなものを志向しています。そういった意味で僕の作品は抽象的な作品が多くなります。抽象性が高いというのは、見る側に色々とゆだねられているので、印象が変わり楽しめる機会が多いからです。また世界的な水準やアート先進国の欧米ではそちらが主流というのもあるからかもしれません。

この活動は実は永遠に死ぬまでやりたいとか思ってないです。ある程度の所でやめて引退しようと思っています。というのもどんなスポーツや芸能も花の時期があります。一番勢いのある時期のことです。この時期の作品群はぼくにとっては重要なもので、顧客の方、ひいては作品が残るなら重要になります。ピークを去った後に作品作りをすると、駄作が生まれる可能性は高まります。その結果、その場合は早くやめないと前の廃棄した作品と同じような末路を迎えることになると思っているからです。アート活動は一番のピークが40から65くらいではないかと思っています。それ以前は修業時代、それ以降は加齢により筆の走りが悪くなるのも予想されます。

早くいい時期でやめられれば作品の密度が高まり、作品の価値や僕自身の価値が高まり、ひいては顧客の皆様や関係者にいい感じで還元できるはずです。その後は物理や化学を学びなおし実験をしていきたいと思っています。

以上アートに対する自分の取り組みの気持ちを書きました。兎に角、目先の金儲けとか気にせず、自分の幸せとかも犠牲にしてでも、今の目の前に全力投球したいと思っています。